本文
さたけみなみけおやしきえず
2点
市指定/歴史資料
令和6年3月1日
本資料は2点からなり、現在の市役所本庁舎周辺に築かれた佐竹南家の御屋敷の平面図で、いずれも天保九年(1838)に描かれた絵図をもとに、かつての家臣らが明治期に描いたものである。
南家は、元和六年(1620) の城破却後から明治までの266年間、所預(ところあずかり)としてこの地で政務にあたった。御屋敷の広さは約130メートル四方で、所預やその家族の住居と役所を兼ねていた 。
本資料には 、各部屋の間数や名称が詳細に記されており、機能ごとに部屋割りがなされていたことがわかる。西側には番所や客間が置かれ、屋敷の中心部には広間や祈祷間、対面所など公的な空間が広がる。南側には御座や御台笥間(おだいすのま)など殿様の居住空間、東側には女中局や化粧間、寝所などがある。通りに面した北側には台所や膳番所、財用所や用座(※)、勘定所、歩行詰所など役所機能が置かれている 。
現在の湯沢の成り立ちを考えるうえで、藩政期の湯沢を一貫して治めた南家の存在は大きい。しかし、「佐竹南家日記」以外、市内に残されている資料は数少なく、本資料は、明治期に描かれた写しではあるものの、政務の中心を担った御屋敷の様子を今に伝える貴重な資料である。
※用座=県指定有形文化財(古文書)「佐竹南家日記」が記されていた部屋
湯沢市内町
個人
明治19年(1886)
縦87cm 横83cm 紙本著色
この絵図は、天保九年(1838)に描かれた佐竹南家の御屋敷絵図をもとに、芳賀勝縁(かつよし)(「湯沢古城之図」作者)が明治19年(1886)に書き写したものである。
佐竹南家の屋敷平面図で、間取りは墨書き、畳は黄色、廊下(板の間)は灰色に色分けされ、畳割は朱色で表されている。また、各部屋の間数や名称も詳細に記されている。一部張紙が付されており、添書より、天保九年以降、祐筆詰所が用座の南隣に移されたことがわかる。
添書には、藩主佐竹義厚(よしひろ)の参勤交代に際し南家義珍(よしはる)の代の天保九年(1838)に描かれた絵図の写しであること。天保期以降、座敷割が種々変更になり張紙が増えたところも急いで写し取ったこと。明治4(1871)年の廃藩置県により南家の屋敷が廃却になったこと。明治19年(1886)5月9日に、芳賀勝縁が描いたことが書かれている。
湯沢市北荒町
個人
明治21年(1888)
縦96cm 横77cm 紙本著色
この絵図は、天保九年(1838)に描かれた佐竹南家の「御屋敷絵図面」をもとに、明治21年(1888)に書き写したものである。
佐竹南家の屋敷平面図で、間取りは墨書き、畳割は朱色、土壕や空き地は青色の濃淡で描かれている。また、各部屋の間数や名称も詳細に記されている。
添書には、藩主佐竹義厚(よしひろ)の参勤交代の折、南家義珍(よしはる)の代の天保九年(1838)に描かれた内郭町の御屋敷絵図面の写しを、明治21年(1888)2月に再度写したことが書かれている。