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かんぎてんそんじんじゃおよびきゅうこうだいじでんらいしょぞうならびにむなふだるい
9躯及び2枚
市指定/彫刻
昭和43年12月23日
湯沢市湯ノ原一丁目225番
歓喜天尊神社
江戸時代(17~18世紀)
歓喜天尊像:銅無垢 像高12.3センチメートル
その他諸仏:木造 彩色 漆箔金泥
これらは、歓喜天尊神社の銅造歓喜天立像1躯及び棟札類2枚、旧広大寺伝来の諸像の一群である。
歓喜天は、大聖(だいしょう)歓喜天または聖天(しょうでん)と呼ばれ人身象頭(ぞうとう)の男女二天が抱擁する姿の立像が最も多く造られる。本像も同様で、地元では「おしょうでんさま」として親しまれている。
木造大日如来坐像をはじめ、諸仏は広大寺に由来し、素朴な風合いの不動明王立像には「寛永(かんえい)十九年(1642)八月八日仏師龍蔵作湯沢□」の銘がある。また、火炎光裏に「寛文(かんぶん)二年(1662)八月覚□法印」の銘がある不動明王坐像はじめ、他の像は入念な仕上げが施され迫真の表情を持ち、多量生産品とは一線を画す。
佐竹南家(さたけみなみけ)十三代義珍(よしはる)の嫡男義孟(よしたけ)が幼いころ疱瘡(ほうそう)にかかり、歓喜天に平癒の祈願をしたところ治癒したため、義珍は、その御礼として天保(てんぽう)四年(1833)に大聖歓喜天堂を根小屋町の広大寺境内に建立した。広大寺は真言宗大覚寺(だいかくじ)末で、もと常州(じょうしゅう)南館にあったが、慶長(けいちょう)七年(1602)、佐竹義種(よしたね)に従って当地に移り南家の祈願所とされた。神仏分離令により明治3年(1870)、廃寺となり、堂宇は明治24年(1891)に現在地に移転された。
佐竹南家ゆかりの資料として、また、社寺の歴史を知るうえでも貴重な資料である。
※□は不明文字