本文
ろくじぞうりゅうぞう
6躯
市指定/彫刻
平成16年2月12日
湯沢市稲庭町字万田平20番地
善龍寺
江戸時代 延享四年(1747)
像高(右から)一号像54.1センチメートル 二号像53.5センチメートル 三号像55.3センチメートル 四号像55センチメートル 五号像54.3センチメートル 六号像54センチメートル
一木造 彫眼
六体とも円頂(坊主頭)、額中央に白毫(びゃくごう)跡を残す。両手の位置はそれぞれわずかに異なり、手首を残すのは一号像の左手のみで、あとはすべて欠失している。一部に赤彩が残り、当初は彩色であったことがわかる。
ふっくらとした顔立ちに、大きく円い両眉から鼻梁(びりょう)を続けて高く彫り出し、眼は細く一筋とし、小鼻と口を小さく、耳は大きく作る個性的な彫像である。
各像の背面に墨書があり、四号像の背面には「延享(えんきょう)四年卯年 白宮山宝蔵十二代潜巌(せんがん)百拝作 十月十三日 開眼(かいげん)供養」の銘がある。潜巌とは、現大仙市神宮寺(じんぐうじ)の宝蔵寺(ほうぞうじ)十二世潜巌観機和尚(かんきおしょう)のことで、地蔵菩薩(ぼさつ)の再来として敬われ、自刻した千体の地蔵尊像は潜巌地蔵の名で親しまれ、津軽にまで広まっている。
本像が造立された延享四年(1747)は江戸時代中期であるが、江戸時代前期から中期には、円空(えんくう)や木食(もくじき)に代表される個性的な彫刻僧が活躍した時期であり、潜巌地蔵もそうした流れの中に位置づけられる。