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ひなわじゅうにちょうおよびふぞくひんいっしき
市指定/工芸
昭和51年5月7日
湯沢市内町
個人
江戸時代
銃口から火薬と弾薬を入れ、火縄による点火によって弾丸が飛び出す形式の銃である。「柴辻理右衛門(しばつじりえもん)」の銘があり、芝辻理右衛門は、江戸時代前期の堺の鉄砲鍛冶で、日本最初の火縄銃の製作者といわれる妙西(みょうさい)の孫である。その他、火縄やアワビの貝殻で拵(こしら)えた火薬入れ、弾丸筒なども残されている。
寛政(かんせい)年間(1789~1801)以降、南下政策を強力に進めるロシアを警戒し、幕府は東北諸藩に警備を目的とした出兵を命じた。安政(あんせい)三年(1856)には湯沢の足軽35人が増毛(ましげ)の、翌年には湯沢給人53人が宗谷の警備についた。
これらの火縄銃他一式は、安政四年(1857)、鉄砲頭(てっぽうがしら)として派兵された斉藤佐太夫(さいとうさだゆう)が携行したものである。その道中や警備の模様などが『松前蝦夷地御固勤番日記』ほかに記録されている。