本文
さたけみなみけにっき
271冊
県指定/古文書
昭和60年3月15日
湯沢市佐竹町1番1号
湯沢市
江戸時代 天和二年(1682)~慶応四年(1868)
『佐竹南家日記』は、天和(てんな)二年(1682)から慶応(けいおう)四年(1868)までの187年間の公的記録であり、南家では六代義敞(よしとし)から十六代義隣(よしちか)に至る。延べにして20年分の欠巻があるものの、総数は271冊で、内訳は御用座で書かれた「御日記」が253冊、御膳番所で書かれたと思われる「御日帳」が16冊、他に「御屋敷番日記抜書」1冊と「宝暦(ほうれき)以来御記録早引」1冊からなる。
この日記には、南家や家臣団の動きはもとより、町方や村方の様子、収納、訴訟、災害、交通事情など、多岐にわたって記録されている。
佐竹南家は、宗家十七代義舜(よしきよ)の三男義里(よしさと)を祖とし、佐竹氏が常陸太田(ひたちおおた)(現茨城県常陸太田市)に本拠を構えていたとき、その城の南に分家居住したことから南家と称された。慶長(けいちょう)七年(1602)の佐竹義宣(よしのぶ)の国替えに従い、当初湯沢城代として湯沢に入り、元和(げんな)六年(1620)の城破却後は所預(ところあずかり)として明治に至るまで家臣団の指揮にあたった。