ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
<外部リンク>

本文

旧院内銀山跡

印刷用ページを表示する 更新日:2020年9月26日更新

明治中期の院内銀山町の写真
明治中期の院内銀山町
(院内銀山史跡保存顕彰会 提供)

御幸坑の写真
御幸坑

早房坑の写真
早房坑

金山神社の写真
金山神社

よみがな

きゅういんないぎんざんあと

指定/種別

県指定/史跡

指定年月日

昭和48年12月11日

所在地

湯沢市院内銀山町字下タ町、湯沢市院内銀山町字上本町

時代・年代

江戸時代~昭和

概要

 院内銀山は、慶長(けいちょう)十一年(1606)、村山宗兵衛(むらやまそうべえ)らによって発見されたといわれる。開坑当初から石見(いわみ)、生野(いくの)の銀山とともに日本三大銀山と称され、全国から多くの人が集まり銀山町が形成された。最盛期には1万人を超える人口があったといわれる。
 国内の大鉱山が衰退していく中、盛衰をくり返しながらも藩政期を通じ、日本を代表する銀山として藩財政を支えた。
 明治18年(1885)には古河(ふるかわ)鉱業の経営となり欧州の技術を導入し国内最高の産出量を続けた。その後、鉱脈の枯渇や鉱況の低下により昭和29年(1954)に閉山となった。
 県指定史跡となっているのは、早房坑(はやぶさこう)、御幸坑(みゆきこう)、金山神社(かなやまじんじゃ)である。
 早房坑は、雄物川源流の不動滝わきにある寛永(かんえい)年間(1624~44)の坑道で、現存する坑道の中では最も古く、旧方式による採掘形態を伝える坑道である。
 御幸坑は、当初から五番坑と呼ばれ、唯一の鉱夫の出入り口であった。明治14年(1881)、明治天皇御巡行の際の見学坑道であったことから、のちに記念坑として現在の名に改められた。
 金山神社は、江戸時代は山神宮と称し、現在の名称は明治の神仏分離令後の命名。慶長十二年(1607)の創建で、現在の社殿は文政(ぶんせい)十三年(1830)に藩主の命により久保田の棟梁米沢屋倉松(くらまつ)が建築した。銀山の総鎮守として藩主の尊崇(そうすい)厚く、直筆の書などが奉納されている。
 平成18年(2006)1月、豪雪のため一部損壊し、平成20年(2008)11月に修復工事が完了している。

関連情報