本文
西方から全景をのぞむ
本丸跡
ゆざわじょうし
市指定/史跡
昭和42年5月30日
湯沢市字古館山
湯沢市 外
鎌倉時代後期~江戸時代初期
湯沢城は、中心市街地の東方「古館山(ふるだてやま)」と呼ばれる標高約200mの丘陵地帯に築かれた中世の山城であり、東西約400m、南北約600mの規模をもつ。城の西端に位置する見張台からは、正面に鳥海山(ちょうかいさん)、眼下には湯沢の西部はもとより横手盆地が一望できる。
湯沢城は、鎌倉時代後期、小野寺(おのでら)氏によって稲庭城の支城として築かれ、稙道(たねみち)(1487?~1546)の代には一時小野寺氏の本拠となる。稙道の子輝道(てるみち)(1534~97)の代に横手城(朝倉城)に本拠を移したのちも湯沢城は雄勝の中枢として機能した。
しかし、文禄(ぶんろく)四年(1595)、最上勢の攻撃を受け落城し、文禄五年(1596)から最上の武将楯岡満茂(たておかみつしげ)が城主となる。関ヶ原の戦いから2年後の慶長(けいちょう)七年(1602)、佐竹義宣(さたけよしのぶ)の秋田転封にともない、佐竹南家(みなみけ)三代義種(よしたね)が城代として入り城を整備した。
元和(げんな)六年(1620)、一国一城令(いっこくいちじょうれい)によって湯沢城は破却されたが、本丸、二の丸、五社壇(ごしゃだん)、馬場、見張台などの跡が今もその地形を残している。