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正楽寺跡
共葬墓地
かどやけぼしょ
市指定/史跡
平成12年10月26日
湯沢市院内銀山町 共葬墓地
湯沢市院内銀山町 正楽寺跡
個人
門屋家は、四代にわたって銀山で医師を務め、治療範囲は銀山にとどまらず、湯沢町、及位(のぞき)(現山形県最上郡真室川町)、矢島(由利本荘市)方面にまで及んだ。特に疱瘡(ほうそう)予防のための種痘(しゅとう)に代々尽力した。
初代養安(ようあん)は、寛政(かんせい)四年(1792)、新庄藩に生まれ、若くして院内銀山を訪れ、湯沢の柳玄碩(やなぎげんせき)について内科の医学を修め、阿仁、鷹巣町七日市を経て天保(てんぽう)元年(1830)頃、家族とともに再び院内銀山に移り住んだ。天保十一年(1840)には養安の提唱により、鉱夫の「よろけ」(珪肺(けいはい))予防対策のための療養所が藩によって建てられた。養安は医師として、また奉行側近として銀山経営にも携わるなど幅広く活躍し、明治6年(1873)に銀山町で没した。
天保六年(1835)六月から明治2年(1869)までの35年間の日記『(門屋養安日記』)には、医療活動のほか銀山町の政治、経済、文化、民俗、庶民生活まで多彩な内容が記され、鉱山史研究においても貴重な資料となっている。